升谷先生から授かった「座右の銘」
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昭和38年度卒 大久保 信和
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昨年のオーロラ会には出席できませんでした。病気知らずの義兄が1月9日に突然他界して初七日の法要を営むために欠席しました。
年始早々に身内の不幸に歎き、愁いに沈んでいた矢先に、思いもかけぬ「升谷先生逝去」の知らせを受けました。
小生にとって余りにも唐突な報せでしたので、一瞬頭の中が真っ白になりました。何かの間違いではないかと後輩諸氏に確かめてもらいました。それほど時間がかからずに事実であったがわかり、愕然と致しました。師弟は親子にも優る絆で結ばれた固い縁がある、と常々先生は曰れておりましたが、小生はもう一人の頑固親父をなくした(疋ゥゥそんな心情でした。
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思えば升谷先生との出会いは、3年の後期(昭和37年)に偶々1号館の廊下で先生から声を掛けられた事が端緒でした。
「卒論の研究室は決まったか?」といった主旨の話をされた、と記憶している。
小生はまだ決まって無い事、どうしたらよいか悩んでいる事等を話しました。
先生からは「迷っているなら私の研究室へ来い」と暖かい言葉を頂き、その場は終わりました。
以前から講義等を通して先生は存じていた、印象的には「大学の先生」にしてはやけに人間臭さを感ずる方だなあ!と思っておりました。
先生に声をかけていただいた事がきっかけで結論的には後期の試験終了後に「他に自分をゆだねる研究室はない!」と考えて入室させてもらいました。
研究室の入り口に至るアクセス路はい1号館地下のトイレ内を通っており、部屋は陽入当たらない穴蔵といったところで、驚きました。しかし先生方そろって時折訪れる先輩方を含めて、何か暖かい一家意識的な雰囲気の在る、たのしい研究室であったと思っています。
小生達三八年度卒の同期生は総勢7名でした。輪講やら卒論の指導は全て武中・中田両先生からでした。升谷先生から直接教授頂く事はほとんど無かったと思います。
時折見えると志とか信義(疋仁義とか(柊人の道(稗を説く儒教的教えを教授されました。
「師は道を教え業(わざ)を授け惑いを解く所以なり。」と考えられていた様で、弟子たる卒業生については将来とも見守り指導する! と常々言われていた。
「道を以って己れを貫く」とした先生の指導理念を少しく感受することができた、と思っています。
升谷先生の教えは就職後の小生の精心的な面や行動面に少なからず影響があったと思います。
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我々7名の同期生は無事に昭和39年3月吉日に卒業する事が出来ました。
卒業式当日は式典に出席した後に研究室で教授から卒業証書が手渡される事になっていました。式典に出てから研究室へ証書を頂戴に行きますと、先生が藁半紙を色紙がわりに筆を振るって居ました。先に戻っていた同期生は、藁半紙の色紙に各々何やら認めてもらっていました。小生にも何か!とお願いいたしましたところ、暫く考えられて「琢磨十年」大久保君、と書いてくれました。
小生が黒色の分野(日本道路公団)へ巣立つ事から「志」を忘れずに、勉め励むべし、と戒めの言葉を認めて下さったのものと感慨無量でした。日本道路公団に入社以来現在に到るまで師から授かりし「座右の銘」として心に刻んでおります・
卒業後程経った昭和50年頃だったと思いますが。先生に会いました折に「琢磨10年」と書いて頂きましたが年季は明けたでしょうか? と尋ねた事があります。先生曰く、お前がしっかりやっている事は梅村先輩(昭和16年卒(疋建設省電気通信室初代室長(在)建設電気技術協会創設者)から聞いている。これからも更に磨いて後輩の面倒を見て欲しい。頼むぞ! と檄を飛ばされました。
この頃から先生も日本道路公団の事業、そして電気工学科出身者の担当業務など洞察されて適応性のある後輩を推薦してくれる様になりまして、現況では研究室を通して入社した後輩も17名を数えるようになりました。
同窓と言う絆をベースに桜工パワーは更にアップして活躍してくれると思っています。
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さて小生は平成六年十月に日本道路公団を勇退しまして、アウトソーシング的役割を担う現在の会社で禄を食んでおります。
平成七年一月十五日の新年会の折に、この事を報告しましたところすでにご存知で、身を置く社は変わっても、従来同様に後輩の面倒をみてくれ! 又々檄を飛ばされました。
何歳になられても先生の教え子に対する思いは全く変わっていない…感服しました。
今日、他界された先生の声を拝することは出来ませんが、私なりに先生から頼まれた事を幾ばくかでも実践すべく腐心しています。